「人生会議」アドバンスケアプランニング(ACP:Advance care planning)
2014年の年間死亡者数は約126万人を超えており、2025年には約154万人、2035年には約166万人へと急増する多死社会が訪れます。厚労省も1987年以降、病院から在宅への流れを促進するために意識調査などを重ねながら、終末期医療の在り方について有識者会議での検討、試行錯誤を続けてきました。そして広く患者・家族・医療職が合意できる基本的な点を整理し、2007年に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」が作成されました。さらに、最期まで尊厳を尊重した人間の生き方に着目した医療を目指すことが重要であるとの考え方に基づき、2015年には従来使われていた「終末期医療」という表記を「人生の最終段階における医療」に変更することとなり、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」と名称が変更されました。2018年には「人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス」である。ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の考え方が盛り込まれ、ガイドラインの改訂が行われました。本人の意思は変化しうるものであることや本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、本人と家族等の信頼できるものを含め、話し合いが繰り返し行われることが重要であり、人生の最終段階における医療・ケアの提供にあたって、医療・ケアチームは、本人の意思を尊重するため、本人のこれまでの人生観や価値観、どのような生き方を望むかを含め、できる限り把握することが必要です。また厚労省では「アドバンスケアプランニング(ACP)」について、愛称を「人生会議」としてACPの普及啓発に活用し、認知度の向上を図っていくとしています。
なぜ、今、「人生会議」アドバンスケアプランニング(ACP)なんでしょうか? 地域包括ケアシステムは、最期まで好きなことろで好きなように住まわしてあげることも目的にしてており、今後、多くの人が亡くなる場所が病院から地域(自宅、施設)に移っていきます。地域で生活していくときにこれから起こってくるであろうことに備えて、今後の治療やケアの内容について話をすることをアドバンスケアプランニングと言いますが、この背景には、人生の最終段階ににおいて、意思決定できない人が70%もいることがわかっています。
桂 米朝さん 89歳 肺炎
米朝さんは2009年に脳梗塞を患い、2014年から肺炎で入退院を繰り返していた。2014年12月から高齢と体調を考慮して病院に入院していた米朝さん、2015年1月下旬に一時、危篤状態に陥ったこともあった。亡くなった3月19日も昼間にはテレビを見ていたが、その後、容体が悪化。米團治ら親族や月亭可朝、ざこばら一門、中川家、約15人が見守る中、静かに息を引き取ったという。米團治は「全然苦しまずにみんなが見守る中、眠るようにあちらへ逝きました」。ざこばも「こないに上手に、こないにキレイになくなるとはと思いました」と泣き崩れた。(2015年3月19日)
まさに絵に描いたような大往生なんでしょうね。医師からは「はっきり言うたらご寿命です。あちらへ行く準備をしていると思います」と言われ、病名は肺炎ですが、ほぼ老衰です。家族や弟子たちに見守られながらの旅立ち、幸せな最期ですよね。
1925年(大正14年)旧関東州(満州)大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。1943年、正岡容(まさおか いるる)に弟子入り、のちに1947年桂米團治に師事。出囃子は『三下り鞨鼓』『都囃子』。俳号は「八十八(やそはち)」現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後、滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。知的で端正ながら、たっぷりと笑いを盛り込んだ芸風が持ち味。人情噺や芝居噺などネタの豊富さは随一で、大ネタ「地獄八景亡者戯」も復活させた。小学生でも読めると評価された入門書「落語と私」や「上方落語ノート」などの著書も。一門では、桂枝雀さんや月亭可朝、桂南光ら個性的な落語家を多く育てた。1996年に落語界から2人目の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、2009年(平成21年)には演芸界初の文化勲章受章者となった。
ひと昔前までは、大家族でずっといっしょに生活する中で、その人の価値観や信条などを慮って、自然な形として死というものがあったわけで、米朝師匠にしても師匠が考えそうなことは、弟子たちはみんな承知していて師匠らしい最期をみんなで演出できたんだと思います。
ACPの実際(何時?、誰に? 何を?)
何時?
アドバンスケアプランニング(ACP)のタイミングは、早すぎても遅すぎても適切でありません。早すぎるて、全く元気な時に「どこで死にたいですか」『人工呼吸器をつけますか』と聞かれても、その時どこに住んで、周りにいる家族もどうなっているかわからない状況で、いろいろ考えても現実味がなく不明確、不正確なものとなってしまうし、反対にそのタイミングを逃すと、結局は行われない可能性が高くなってしまいます。
case study
88歳 男性。10年前に心筋梗塞の既往があり、5年前に脳梗塞を起こして右片麻痺と構語障害と嚥下障害あり。去年、誤嚥性肺炎で入院、今年も2月と7月に誤嚥性肺炎で入院、徐々に全身状態も悪くなっておられ、2ヶ月前に、再度肺炎で入院されて懸命の治療でなんとか持ち直して、先週退院されました。今日は、退院後初めての外来受診の日です。
さて、このケースでは、今後、何時また誤嚥したり、脳梗塞、心筋梗塞を再発したりするかもしれず、今回の診察で、今後の治療、ケアについて話し合うことについて異論がある人は少ないんではないでしょうか。
一般的には、サプライズクエスチョンと言われる手法で、自問自答します。「この人が1年後に亡くなっていたらあなたは驚きますか?」亡くなっていたとしても驚かないと思われる患者さんは、そろそろ介入してもいいのではというわけです。しかし、実際はそう言われても難しいですね。感覚的には、なんとなくそういった話題が出たタイミングであったり、ケアマネさんはリハビリスタッフが日常会話の端々にその患者さんがなにを大切に思っていて、どうしたいのかなどといった情報を少しずつ集めてみんなで共有していくのが自然な方法かなと思います。
どういった患者さんが「人生会議」の介入をしたらいいのかスクリーニングツールとしてSPICT(Supportive and Palliative Care Indications Tool)が用いられることがあります。
(1)PSが低下、もしくは悪化傾向(50%以上をベッドもしくは椅子で過ごす)にあり回復が望めない
(2)身体的・精神的問題で、ほぼ全ての日常生活に他者からの支援が必要
(3)この6ヶ月以内に2回以上、予定外入院の病歴がある
(4)3〜6ヶ月以内に5-10%の体重減少があるか、BMIが低い
(5)基礎疾患に対する治療が行われているにもかかわらず、持続的に問題となる(つらい)症状がある
(6)患者から支持療法、緩和ケア、もしくは治療中止の希望がある
(1)重度の身体症状(痛み、呼吸困難など。10段階で7-10)
(2)重度の精神症状(抑うつ、不安など。10段階で7-10)
(3)早く死なせてほしいと患者が求めた時
(4)スピリチュアル・実存的な危機にある時
(5)意思決定支援、ケア計画の支援が必要な時
(6)緩和ケアを受診したいと患者が求めた時
(7)せん妄がある時
(8)脳転移・髄膜転移
(9)脊髄圧迫・馬尾症候群
(10)病期・病状からみた基準
予後が1_年以内と推定される進行がん診断から3ヶ月以内
二次化学療法でPDと判断された進行がん患者
誰に?
アドバンスケアプランニング(ACP)を誰にするかも重要です。早すぎるて、全く元気な時に「どこで死にたいですか」『人工呼吸器をつけますか』と聞かれても、現実味がなく一般論としての回答になってしまいがちです。また、タイミング的にはドンピシャでも、準備ができていない人に行うと思いもよらぬ結果をまねいてしまうこともあります。
大橋巨泉さんの妻 大橋寿々子さん 「悔しくて、それで泣いて、それで眠れず、日々過ごしています」10年以上前に、がんと診断されてから入退院を繰り返してきた巨泉さん。最期は、住み慣れたわが家で過ごしたいと考えて在宅医療を選択しました。ところが、初めて訪れた在宅医から、思わぬ言葉をかけられたといいます。いきなり僕に「大橋さん。どこで死にたいですか?」と聞いてきた。 僕は、すでに死ぬ覚悟はできていたのだが、「えっ?俺もう死ぬの?」とぼう然とした。大橋巨泉さんの妻 大橋寿々子さん 「えって、びっくりして返事をして。 主人は首をかしげながら、ひゅーっと小さくなっていくようにがっかりしてしまった。」その日を境に、急激に食欲が落ち、生きる気力さえ失っているように見えたといいます。 その後、体調が悪化し、再び入院。 3か月後に、息を引き取りました。 担当した医師は、NHKの取材に対し、「病状が重いと判断したため、最期の過ごし方を確認しましたが、患者側と認識が違っていました。結果的に精神的な苦痛を取り除けなかったことをおわびします」と回答しました。大橋寿々子さん 「自分で歩いて車に乗って、うちへ帰ってきたわけですよ。 書斎で仕事もできる。 希望にあふれて帰ってきました。」大橋巨泉さんの妻 大橋寿々子さん 「大事な大事な最期の時間を、そういう嫌な状態で亡くなってほしくない。 信頼も砕かれまして、全くよくわかりません。 日本中、こうなんでしょうか」(2016年7月12日)(家で最期を迎えたい ~広がる在宅医療の陰で~2017年2月16日(木)放送 クローズアップ現代)
10年以上のがんの闘病生活の末、在宅医療を選択、本人も既に死ぬ覚悟はできていたと書いています。その状況で、かかりつけ医が「どこで死にたいですか?」と確認することはどこの地域でも普通に行われています。実際に本人が自宅で最期を迎えたいとおっしゃっていても、患者さんが急変した時には家族がパニックになって救急車を呼んでしまうことはよくあることで、その結果、病院で心マッサージ、挿管されて、ICUでたくさんの管がついた状態(スパゲティー症候群)こんなはずではなかったというようなことにならないように「なにかあっても救急車は呼ばないで下さい。まず、医院の方に電話して下さい」とお話しするようにしておりました。実際に在宅医療の啓蒙のため「あなたはどこで死にたいですか?」って銘打った講演会もたくさん開かれています。
亡くなられた入院先の千葉の病院の先生からは「死因は“急性呼吸不全”ですが、その原因には、中咽頭がん以来の手術や放射線などの影響も含まれますが、最後に受けたモルヒネ系の鎮痛剤の過剰投与による影響も大きい」と言われ、最後の在宅介護の痛み止めの誤投与が無ければと許せない気持ちですと話されています。報道からだけでは真偽のほどはわからないので、ここからは私の独断と偏見かもしれませんが、大橋巨泉さんは、安楽死を望まれたぐらいかなり痛みが強かったみたいで、本当にモルヒネの過剰投与なんでしょうか?今回は患者さん、家族との信頼関係をうまく築くことができなかったことは残念で、担当した先生がかわいそうで、皮膚科で在宅をやられている先生はほとんどいません。本当に貴重な存在なんです。おそらくは一生懸命、在宅医療に取り組んでおられたんだと思います。当時、放送も見てたいへんショックを受けたのを憶えています。誰も在宅なんか絶対したくないなと思ってしまいそうで、患者さんに寄り添うということがいかに大変か難しいかということを思い知らされます。
case study
88歳 男性。10年前に心筋梗塞の既往があり、5年前に脳梗塞を起こして右片麻痺と構語障害と嚥下障害あり。去年、誤嚥性肺炎で入院、今年も2月と7月に誤嚥性肺炎で入院、徐々に全身状態も悪くなっておられ、2ヶ月前に、再度肺炎で入院されて懸命の治療でなんとか持ち直して、先週退院されました。今日は、退院後初めての外来受診の日です。
「○○さんはご自身の病気の状態をどのように説明を受けておられますか」
「今後の治療についてどのように説明を受けていらっしゃいますか」
「今後どのようになると思われているかご自分の言葉で教えてもらってもいいですか」
「万が一この抗がん剤が効かなくなったらどうしようと考えたことがありますか」
「万が一、病状のために身の回りのことをすることができない状態になった時のことをお考えになったことがありますか」
「もしごはんを食べられなくなったらどうしようと考えたことがありますか」
などと問いかけて、顔色が変わるようならこれ以上入ってくるなというサインです。話は雑談にきりかえましょう。
もし、考えたことがあると言われたらこれはOKサインなので、アドバンスケアプランニングを始めても大丈夫な患者さんです。
何を?
「もしよかったらどんなことを考えているのか教えてもらってもいいですか」
「病状が思わしくなく、もしもの時のことについて、これから相談をしていきたいと思うのですがよろしいでしょうか」
「病気について知りたいことはありませんか」
「なにかわからないことはあませんか」
しかし、ここで忘れてはいけないことは、代理決定者(家族のことが多い)の方が、本人の意思を知らない限り、本人の意向は尊重されないことがわかっています。代理決定者を選んで頂いて、その方巻き込んで話をしておかないと本人の希望通りにはならないというわけです。
The SUPPORT study
米国で行われた9000名の患者を対象としたアドバンスディレクティブを介入とした群4500人としなかった群4500人の比較試験。介入した群は、看護師が現在の病気を理解しているかを確認した上で、病気が悪くなった時にどんな治療を受けたいかの聞き取り調査を行いました。ICUに入りたいか入りたくないか、心肺蘇生をするかしないか、人工呼吸器はどうするか、胃瘻どうするか、栄養はどうするか、輸血は?など希望を聞いて、カルテに記載し医師のその旨を報告した群となにもしなかった群で終末期医療の質(DNR取得から死亡までの日数、疼痛、ADの遵守、医療コスト、患者・家族満足度など)に差があるかどうかを調べました。その結果は驚くべく事に、やられた医療は全く差がありませんでした。結構、衝撃でありませんか。なぜでしょうか?結局は家族なんです。家族の意向ですべてが決められて、本人の意向はまったく尊重されないということです。なんでこんなことになるかというと病気が悪くなった時にどんな治療を受けたいかの聞き取り調査の時に患者さんが家族と全く相談していないと言うことです。家族は、患者さんが悪くなって自分で意思表示することが困難な状態で初めて患者さん本人が書いたとされるアドバンス・ディレクティブ(事前指示書)を見るわけです。そこで、患者さん本人がどうしてこんな判断をしているのかわかりませんが、少しでも可能性があるならできるだけのことはやって下さいとなるわけです。限られた時間内での判断を委ねられた家族は、ほぼ一定の割合でできるだけの治療を望まれ、その後のことはその時に考えますという判断をするわけです。つまり、家族を巻き込んで話をしておかないと本人がどんな価値観をもっていて、どうしてほしいか知らない限りは、本人の希望通りにはなかなか進まない現実があるというわけです。
とすれば、前もって家族を巻き込んで話し合っておかないとご本人の意思や価値観を人生の最終段階における治療、ケアに反映できなくなってしまいます。
それでは、患者さんに聞いてみましょう。
「あなたのことを大切にしていて、あなたのことをよく理解されていて、いざとなった時にあなたの代わりにいろいろなことを決めることを任せられる人は誰になりますか」「長男です」
樹木希林さん 75歳 乳癌
2003年に網膜剥離で左目の視力を失い、2005年には乳がんで右乳房の全摘出手術を受けた。一時は完治したが、2013年に転移が見つかり「全身がん」であると告白。それからも満身創痍の中で変わらぬ様子で次々と映画などに出演され、闘病を続けながらも、女優としての活動を続けたが、お別れの日は突然やってきました。2018年8月13日に友人宅で転倒して左大腿骨を骨折。8月30日、本木さんが入院中に一時危篤状態に陥っていたことを明かした際に「細い糸1本でやっとつながってる。声一言もでないの。しぶとい困った婆婆です」という希林さん直筆の文書を披露した。徐々に残された時間がなくなる中、9月14日「家に帰りたい」そこから嵐のように準備して、24時間の介護が出来る状態を整えてから「危険な状態なので、覚悟しながらの移動だと思って下さい」言われる状況の中、無事に自宅に戻りました。「ああ、帰ってきてよかった」と。いつもよりたくさんのブドウを口に含んで、孫たちとスマートフォンの動画をいっしょに嬉しそうに眺めたり、浅田美代子さんも来られて和やかな時間を過ごしました。みんながしゃべっているのを聞きながら、すうっと寝入ったという感じだったが、夜半より「ちょっと呼吸がおかしいから来て下さい」と言われて、本木夫婦、孫たちみんなに囲まれながら、また夫の裕也さんとは電話で声をかけてもらいながら、だんだん呼吸の間隔が空いていって、本当に静かにスーッと消えていくという感じで息を引き取られました。(2018年9月15日)
1961年から文芸座に所属し、悠木千帆の名で活動を始める。66年に文芸座を退団した後は、TVドラマ「時間ですよ」(70~75)や「寺内貫太郎一家」(74~75)、「ムー」「ムー一族」(77~79)などでお茶の間の人気者になる。77年、樹木希林へ改名。芸名の「樹木希林」は自ら考案。「木が集まって希(まれ)なる林に」という意味を込めたものだ。個性派女優としてTVドラマや映画、CMで活躍する。映画では、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(07)で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、「悪人」(10)で同最優秀助演女優賞を受賞。私生活では、1964年に俳優の岸田森さんと結婚し、68年に離婚。73年に再婚したロックミュージシャン内田裕也とは1年半で別居。長らく別居生活を続けながら81年に裕也が一方的に離婚届を区役所に提出したが、離婚無効の訴訟を起こして結局離婚は成立せず、その風変わりな夫婦関係でも知られた。長女・内田也哉子は俳優・本木雅弘を婿に迎えた。08年に紫綬褒章、14年旭日小綬章を受章した。13年「わが母の記」(12)で日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞に輝いた際、受賞スピーチで全身ガンを公表。その後も映画に出演し続け、「そして父になる」(13)「海街diary」(15)「万引き家族」(18)などに出演した。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」
樹木希林さんの生きざまがは、宝島社が16年1月5日に全国紙4紙に掲載した企業広告にも起用され、同年の「読売広告大賞」グランプリを受賞した。英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの名作「オフィーリア」をモチーフに、安らかな微笑みを浮かべた樹木さんが森の中で1人、水面に身を横たえているデザイン。「人は必ず死ぬというのに。長生きを叶える技術ばかりが進歩してなんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。(麻生さんが「とっとと死ねるようにしてほしい」とコメントして炎上、大騒ぎになっていましたが、希林さんが言うと名言になるんですね。お気の毒に)死を疎むことなく、死を焦ることもなく。ひとつひとつの欲を手放して、身じまいをしていきたいと思うのです。人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。それが、私の最後の欲なのです」とのメッセージが添えられています。
しかし、後日のインタビューでは、「あれは私とは違います。私はふだんから好き勝手しているから」と答えています。確かに死ぬときくらい、と考えているようでは、理想の最期を実現することは出来ないのかも知れません。存在感抜群の演技だけでなく、生き方から歯に衣着せぬ物言いまで、多くの人の心に残る方でした。訃報を耳にして、樹木さんは女優としても素晴らしかったけれど、死に方もまたカッコよかったなぁと感じた方は多かったのではないでしょうか。では、どうすれば樹木さんのようなカッコよい最後を迎えることができるのでしょうか?みんながみんな樹木希林さんのように強く生き抜くことは難しいと思われますが、かかりつけ医が、アドバンスケアプランニング(ACP)に沿って患者さんの気持ちを上手にくみ取れば、誰だって樹木希林さんのようにとまではいかないかもしれませんが、その人なりにはカッコよく死ねるではないかと思います。
患者さんと代理決定者とともに今後の治療・ケアについて話し合い、その過程を共有することで患者にとって大切なこと、価値観を理解することが最も大切です。価値観って難しいですよね。どんなにつらい状況で、苦痛や障害が残ろうとも生きていたいという考え方と昏睡状態から回復することがない状態や二度と家族や友人と話ができない状況になったら生きている価値がないと感じる考え方があります。
「生きる時間が限られているとしたらどんなことが大切ですか」
「これができないで生きていくことはちょっと考えられないことはどんなことです」
よく聞かれるのは「お父さん(お母さん)と最期までいっしょにいたい」「食べたり飲んだりすることができなくなったら・・・」「伝えたいことが伝えられなくなったら・・・」「自分のことが自分でできなくなったら・・・」もうなにもしてくれるななどと言われることが多いと思います。
病状が進むと、意識が薄れて、ご自分の意思を伝えることが難しくなります。そのような時はどこでどのような治療やケアを受けたいか具体的な希望はありますか?逆にそのような場合に、これだけはしてほしくないということがありますか?今後の具体的な治療や処置などに対する説明や内容(輸液、輸血、胃瘻、経管栄養、ICU、人工呼吸器、心肺停止時の心肺蘇生)を詰めていくわけです。ACPには事前指示書はいりません。検査や手術の時などに同意書などをたくさん書かされますよね。「説明を聞きました」っていう念書みたいなものですよね。リビングウイルやDNAR(Do Not Attempt Resuscitation):心肺蘇生法を実施しないこと」も同じように文書ありきですよね。アドバンスケアプランニング(ACP)は、話し合いそのものを指しています。決して前もって紙に書いてもらうことではありません。(結果として文書が残っていることはあります)最期にもう一度言います。「人生会議」アドバンスケアプランニング(ACP)をひと言で言うと「患者さんの価値観を今後の治療、ケアに反映させるための話し合いのこと」を言います。
患者さん本人に十分に意思決定能力がある場合は、患者さんご自身とこれからどんな治療、ケアを受けたいかをしっかり話し合いを行って、ご本人の意思を尊重して、人生の最終段階における治療、ケアを決定します。たとえ認知症があったとしてももし軽ければ、何回も確認すれば、本人がなにを望んでいるかを推測することは可能です。次に、本人に意思決定能力がない場合は、ご家族である場合が多いとは思いますが、ご本人だったらどうしたい、どう考えるか、ご本人にとって最善なことはなにかを聞き取って、治療、ケアを行います。しかし、ご家族との関係性が悪い場合、もしくはいない場合、また一緒に住んでいない、数十年会ったこともないなどで本人の意思がわからない場合は、ご本人の信頼するもの知人、友人がご本人の推定意思を尊重して治療、ケアを決定します。(遠くの親戚より近くの他人と言います)そういった人も全くない場合は、在宅ケアチームで本人の人生観や価値観を把握し、十分に話し合った上で本人だったらどう考えるかを推定して、治療、ケアを決定します。意思表示が難しい状態になっても患者の意向を尊重した医療を行うためには、患者ー代理決定者ー医療者が、患者の意向や大切なことをあらかじめ話し合うプロセスが重要で、このプロセスを共有することで、患者の価値感を理解し共有することでどう考えているかについて深く理解することができる、すなわち複雑な状況に対応可能になるわけです。
家族の気持ちを医師がどう受け取るか。これからいろいろなノウハウが蓄積されていくわけで、かかりつけ医もスーパーマンではありません。患者さんや家族から病院へ入院されているのと同じことを求められてもできませんし、患者サイドにも元来、在宅医療を選択したこと自体、安易に紹介してもなかなか遠くの病院まで受診、通院することも難しい状況で、在宅でどこまで検査、治療をするのかという問題もあります。在宅医療は、かかりつけ医が365日24時間一人で対応することは限界があり、多職種がうまく連携し患者さんや家族にも覚悟がないと最期まで自宅で看取ることは難しいのです。
どういった最期を迎えたいのか?どこまで積極的に治療をするのか
救急車を呼ぶと言うことは救命救急要請の意思表示です。救急車で運ばれてきた患者さんは、救急病院では心肺蘇生をする命を助けるこれに全力を注がなければなりません。現実問題としてそうなります。
一方で、自分が老衰と呼ばれる状態であったり、あるいはがんの末期の状態になったときに、どこまでが自分の意思として認められて、医療や介護の現場で実現してもらえるのか
法律を作ったらいいのですが、国民のみなさんがみずからの終末期をどのように過ごしていくのかを普段から家族と話し合いをして、自分の意思をしっかり伝えていくことが大切です。
麻生大臣が「とっとと死ねるようにしてほしい」あの口調だから問題になる。国民はそろそろそのことをタブー視するんじゃなくて、考えないと行けないときがきている。
遺言書ではない 遺言書は亡くなったあとの話。 最期をどうすごしたいか
日本尊厳死協会 終末期医療のあり方 個人が自己決定
尊厳を持って苦痛なく静かに死なせてほしい
リビングウィル 私の傷病が現在の医学で不治の状態であり、既に死がせまっていると診断された場合には、ただ単に死期を延ばすためだけの延命処置は一切お断りします。ただし、この場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施して下さい。そのためにたとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても一向にかまいません。私が数ヶ月にわたって、いわゆる植物状態に陥った時は一切、延命維持装置はやめて下さい。
成年後見制度 任意後見人 代理人 尊厳死の難しい,認知症、知的障害,精神障害などの理由で判断能力の不十分な方々は,不動産や預貯金などの財産を管理したり,身のまわりの世話のために介護などのサービスや施設への入所に関する契約を結んだり,遺産分割の協議をしたりする必要があっても,自分でこれらのことをするのが難しい場合があります。また,自分に不利益な契約であってもよく判断ができずに契約を結んでしまい,悪徳商法の被害にあうおそれもあります。このような判断能力の不十分な方々を保護し,支援するのが成年後見制度です。
任意後見制度は将来、自分の判断能力が衰え、生活をしていく上で必要な預貯金の払い戻しや財産管理などを自分ですることができなくなった場合に備えて、判断能力が十分あるうちに、あらかじめ自分の代理人を選任しておき、実際に判断能力が低下したときにその代理人に預貯金の払い戻しや財産管理などを自分の代わりにやってもらうという制度です。この代理人のことを任意後見人と言いますが、任意後見人は、あくまで預貯金の払い戻しや財産管理などの行為を本人に変わって行う代理人という立場に過ぎません。その人の生死を左右するような尊厳死の判断を任せる事は想定されていない。
お一人様、全然、大丈夫
最後に、在宅看取りの話をするときに一番多い質問は「私、一人なんですけど大丈夫でしょうか?」なんです。お答えは、「全然、大丈夫ですよ」
この人が1年後に亡くなっていても驚かないといういう状況で、天涯孤独もしくは家族とはとうの昔に縁を切っており、もう何十年も音信不通という場合もあります。老人ホームでもなにか訳ありでしょうが、1回も家族の面会に来たのを見たことがないというような人もいます。しかし、それもその人らしいというか、積み重ねてきた人生史、生活史でそのような人間関係が構築されたわけで誰を責めるわけでもありません。いわゆるお一人様という場合です。ひとりだから在宅では無理なんて思い込んでいる人もいますが、お一人様だからこそ、在宅で看取れるということもあります。遠くの親戚より、近くの他人とはよく言ったもので、折角、在宅で看取れそうになった時に、遠くから薄い親戚の方が帰ってきて、こんな状態が悪いのになんで入院させんと家で診てんのなんて騒いで(こんな悪くなるまで1回も見舞いにも来たことがないくせに)今までの経過や状況をまったくわかっていない人が無理矢理入院させたりすることも少なからずあるわけです。(本人にとっては、ここぞとばかりの親孝行、今まで放っておいた罪滅ぼしのつもりですが、まったく迷惑なお話です)近所の飲み友達の方がよっぼどあなたのことをよくわかってくれていて毎朝夕に安否確認をしてくれて「昨日の晩はちょっと苺たべたけど、今朝行ったら呼吸してなかったわ」と連絡してくれると、粛々と死亡確認して行政にお願いするわけです。
日本では最近、独居の高齢者が増えています。
独居(一人暮らし)の高齢者が増えてはいるのですが、諸外国に比べるとまだまだ少なくて同居している人が多いのがわかります。普通に考えれば、独居だと自宅で見て介護してくれる家族がいない、看取りもしてくれないので、在宅では無理でしょう、だから病院でしょうとなりがちですがどうでしょう。在宅死亡率は同居率が一番高い(50%)日本が一番低くて(13%)同居率が低いフランスやオランダの方が高く、スウェーデンに至っては同居率5%で、51%を在宅で看取っています。つまり独居だから在宅では看取れないということはないわけです。このからくりはなんでしょうか。資料では、訪問看護師の配置がスウェーデンは日本の10倍の4.2人であることに注目しています。
大原麗子さん 62歳 孤独死
東京都世田谷区の自宅で亡くなっているのが見つかった。大原さんは1999年ごろからギラン・バレー症候群を発症し芸能活動を休止。その後仕事復帰したが、2003年11月に自宅で転倒。右手首骨折などの重傷を負い、リハビリ中だった。警視庁成城署によると、大原さんと2週間前から連絡がとれないことを心配した大原さんの弟が、3日に警察に相談。6日午後7時ごろ、弟と4、5人の署員が自宅を訪れ、寝室のベッドであおむけ状態の大原さんの遺体を発見した。遺体の腐敗はあまり進んでいないものの、死後数日が経過しているという。自宅の出入り口と窓はすべて施錠されており、事件に巻き込まれた可能性は低く、自殺の痕跡もないという。(2009年8月6日)
独特の低い声と落ち着いた演技に存在感が魅力で大女優の名をほしいままにしていた大原さんだったが、プライベートは波瀾万丈だった。73年に俳優・渡瀬恒彦(65)と結婚するも78年に離婚。80年には歌手・森進一(61)と再婚したが84年に離婚し、バツ2となった。1964年、NHKの新人オーディションに合格し、ドラマ「幸福試験」でデビュー。65年東映に入社し、高倉健主演の映画「網走番外地」シリーズ、渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズなどに出演した。その後、芸能プロに所属し、日本的美人の代表としてテレビ局の好感度調査でも幅広い支持を集めた。サントリーウイスキーのCMでも知られ、和服姿で「すこし愛して、ながーく愛して」とささやくコピーは70年代の流行語になった。映画「おはん」、テレビでもNHK大河ドラマ「春日局」(89年)に主演したほか「獅子の時代」「山河燃ゆ」などで活躍。舞台でも好演した。
大原麗子さんの場合は、有名女優だったが故にそのギャップから孤独死などいろいろ書かれてかわいそうな気もするのですが、予期せぬ死のため警察が入って検視ということになってしまいました。人間は本来死ぬときも一人であり、誰もが死ぬとは思っていない状況で急死した場合は、不可抗力的に孤独死とうような体裁になってしまうこともある意味仕方がないと思われます。
安楽死について
11月1日の朝、ブリタニーは、友人3人とダンの弟を合わせた6人でテーブルを囲んで、普段より遅めの朝食を取った。朝食を終えると、愛犬・チャーリーを連れ、ダンと一緒に1時間半の散歩に出かけた。家に戻ると、ブリタニーは、夫を見つめて言った。「ダン、時が訪れたようだわ」午後3時になると、ダンは弟と一緒に致死薬「セコバルビタール」の用意を始める。致死薬は、合計100個のカプセルで、2人は1個ずつ丁寧に開け、マグカップの中に落としていく。母のデビーは、娘の好きなメアリー・オリバーの詩を朗読。これから安らかに死を迎えようとするブリタニーは、友人や母親と過去の幸せだった時の思い出について語り合う。「親愛なる友人と家族よ、さようなら。末期の病気により、私は今日、尊厳死します。世界は美しい場所。旅は、偉大なる私の教師。友人や家族は、偉大なる提供者。今でも、これを書いているベッドの周りで、私を支えてくれている。さようなら、世界のみんな」死の直前に自らキーボードをたたき、自身のフェイスブックに投稿した。4時半、彼女はマグカップを手に握り、オレンジジュースと一緒に喉に流し込んだ。そして、5分もしないうちにまぶたが閉ざされ、ゆっくりと睡眠状態に入っていく。ダンは、まるで数時間後に目覚めそうな彼女の顔を見つめ、枕元で何度も「愛している」と囁いた。呼吸が完全に止まるまで、彼は、結婚式やハネムーンの思い出話を耳元で語りかけ、妻の頬を優しく撫でながらキスをした。ブリタニーは午後5時に息を引き取った。(2014年11月1日)
ブリタニーはカリフォルニア大学バークレー校の心理学部を卒業したばかりで、さらに、教育学の修士課程を学び始めていた。ダンは、大手食品会社に長年勤務。同じ職種の仕事を個人で開業し生計を立てていた。2人の出逢いは2007年4月30日に遡る。出会い系サイト「match.com」を通して地元レストランで会った。2人はすぐに同居生活を始めた。時に喧嘩や別居に到ることもあったが交際は続き、2012年9月29日に2人はついに結婚。しかし、幸せな新婚生活はそう長くは続かなかった。結婚して約1年が過ぎ、慢性的な頭痛に悩まされる。2013年大晦日、朝食を取ると、何度もトイレに駆け込んで嘔吐を繰り返した。病院でMRI検査を受けると、脳腫瘍が見つかった。2014年1月11日開頭術による脳の側頭葉の部分切除を行いました。診断は、脳腫瘍の中でも最悪な神経膠芽種でした。4月には脳腫瘍の再発だけでなく、腫瘍がもっと急速に拡大し手の施しようがなく、医師から「余命が6カ月以内である」という残酷な事実を告げられました。その後彼女はいくつもの病院、医師の診察を受け、数カ月かけて自らの病状と治療方法について出来うる限りの情報を集めました。その結果、病気が治癒することはないこと、医師が推奨した治療は自分に残された時間を破壊することになると知ります。さらに、仮に自宅のあるサンフランシスコ湾岸地域のホスピスケアで緩和治療をしても、そのうちにモルヒネでもコントロールできない激痛、それに伴う人格の変化、そして身体を動かすこともままならないどころか会話もできず、愛する夫や家族、友人などを認識することすらできなくなる苦しみに陥ることも。しかも、そんな見るに忍びない自分に何もしてやれず、ただじっと見守ることしかできない家族のことを考えました。そうした苦悶の日々を重ねた挙げ句、ブリタニーさんは、最終的に究極の結論である「尊厳死」が自分と家族のための最良の選択肢であると判断に至りました。ブリットニーさん自身が医師に要求し、致死量の薬剤の処方箋を受け取り、肉体的かつ精神的なあらゆる苦痛に耐えられなくなったときに自分で摂取して、「生きる」プロセスに終止符を打つ。つまり「医師による自殺幇助」です。今回、ブリタニーさんが移住したオレゴン州をはじめとする米国の5州以外で安楽死が認められている国は、スイスやオランダ、ベルギーなどがある。なかでも古く1942年から合法化されているスイスは、いわゆる〝自殺ツーリズム〟の場所になっており、安楽死を遂げるために渡航する外国人が急増している。オランダでは20年間にわたり、実態調査と国民的議論が行われ、2001年に法制化されました。スイスでの自殺幇助のプロセスは、医師が複数回のカウンセリングによって患者に「死の意思」を問う。現在、罹患している病が不治の病か、または死に値するほどの苦痛を伴うか、などを確認。医師によって「自殺幇助」の必然性が認められれば、患者は誓約書に署名。誰かに死を強要されたわけではなく「自発的に死ぬこと」を宣言する。自殺幇助は、医師が点滴に劇薬を入れ、患者はその点滴のストッパーを自ら開けることでなされる。
「惨めな終わり方をしたくない。愛する人々に囲まれて私は死にたい」2014年5月、彼女は自分の病気の予後や終末期医療などについて慎重に考慮して、自宅のあるカリフォルニア州サンフランシスコでは不可能な尊厳死を叶えるために、ブリタニーさんと夫のダン・ディアスさん、そして母親のデビー・ジグラーさんは1000kmも離れたオレゴン州に転居することを決断しました。なぜなら、オレゴン州は、米国で尊厳死が合法化されている5つの州(ワシントン、モンタナ、バーモントとニューメキシコ)の1つであるためです。オレゴン州ポートランドのアパートでは、病状は次第に悪化し、痙攣発作がますます頻繁に起こり30分ほど続くことがあった。舌を噛んで出血することもあり、視力も日ごとに低下していった。深刻な頭痛や首の痛み、そして脳卒中のような症状に苦しみました。症状がさらに深刻になるにつれて、死ぬことを助ける薬を飲むことによって、死ぬ過程を短縮することを選びました。「私の人生の終わりにこの選択をすることは、信じられないほど大切なことになりました。それは、そうでなければ恐怖や不確かさ、そして痛みによって支配されるであろう心乱れる時の中で、医師から処方箋を受け取り、自身の死をコントロールできることで、私に平安な心持ちを与えてくれました」ブリタニーがなぜ、この日を人生最後の日に選んだのか。「その数週間前から、妻の体調はどんどん悪化していきました。彼女がもっとも恐れていたのは、心臓発作を起こした場合、自らの意思で薬を飲むことが出来なくなるということでした」ブリタニーさんの選択を「自殺」と批判する人もいますが、自殺をする人は、死にたい人ですが、彼女は生きたかった人です。「私には自殺願望があるわけではありません」「私は死にたくないのです。脳腫瘍はコントロールできるものではありませんでした。もし誰かが魔法の治療法で私の命を救ってくれるなら、私はそれを選びます」と同時に彼女は、頭蓋骨が割れるような頭痛や絶え間なく襲いかかるてんかん発作、そして会話もままならず、最愛の夫の顔を見ていながら彼の名前を考えられなくなる、といった堪えがたい現実を経験したことのない人が自分の決断を批判することは不当だと訴えるのです。生きたかったブリタニーが、なぜ最終的に致死薬を飲むことを決めたのですか? 「その時期がやってきたことを、彼女が身をもって感じたからです。健康な人々は生きるプロセスを経験する一方、末期患者は死のプロセスを経験するといわれる。死期を、彼女は感じ取っていたのです」痙攣発作が日ごとに悪化した、ある日、彼女はそっと呟いたという。「そろそろ、死ぬような気がする」「ブリタニーが処方箋を手にしたのは2014年5月で、実際に服用したのはその年の11月でした。オレゴンでは、すでに18年間、法律が施行されていますが、患者の3分の1は処方箋で得た薬を持ったまま死なないというデータもあります。オランダでも毒薬を自宅に置いたまま使用しないというケースがあるし、スイスでは、患者が毒の入った点滴を目の前にして、それを開けるか開けないかは本人の決断に委ねている。
厚生労働省において1987年以降、終末期医療について意識調査を行ってきました。2007年に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」が作成された。2015年3月には従来使われていた「終末期医療」という表記を「人生の最終段階における医療」に変更することとなり、「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」と名称が変更された。さらに、2018年3月にはガイドラインの改訂が行われた。2018年に改訂されたガイドラインでは、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の考え方が盛り込まれた。同ガイドラインによると、ACPとは「人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス」である。本人の意思は変化しうるものであることや、本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、本人と家族等の信頼できるものを含め、話し合いが繰り返し行われることが重要である。
人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について、愛称を「人生会議」とし、今後、ACPの普及啓発に活用し、11月30日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」とし、人生の最終段階における医療・ケアについて考える日とします。
ここでは,患者・家族に生命予後や治療のオプションを説明し,延命治療での希望やDNR(Do not resuscitate)の意思などの「事前指示」を確認すること
時間の経過とともに患者さんの考え方が変わることもあるため,頻繁にコミュニケーションをとることが大切だと思います。
そういった声から末期医療に取り組む医師を守るためには,多職種が入ったチームで検討して,「その治療は間違っていない」と表明していくことが,今の日本でまずできることだと思います。
末期医療のコンセンサスを得る上で,チームで治療を進め,患者・家族の意見を聞きながら継続してカンファレンスを行うことは不可欠でしょう。
欧米でも,末期医療では必ず多職種でカンファレンスを行います。また入院が必ずしもベストの治療方針とは限らないので,地域で支援を行う形も含め医療職以外を交えたカンファレンスの必要性も示されています。
ご本人が意思表明できなくても,多職種で検討したなかで「現在のベスト」と考えられる治療を選択することがポイントでしょう。患者・家族のことを考慮して,現在の医学でベストの治療を多職種で行っていくことが適切だと考えています。